男半チャーハン日記
半チャーハン
男半チャーハン日記
半チャーハン
人生においてコントロールできるものは少ない。人によっては、仕事は安定しているだろうがそれは奴隷役を通じて安定したコントロールを受けているにすぎない。人はいずれ死ぬ。しむけんもいつか死ぬ運命だったんだ。しみけんだっていずれ…
じゃあなんで、この変な日々を受け入れてしまうことに諦めがつかないのか、なんでこんなにやたら皆エネルギー(主に憎悪なんだけど)で煮えたぎっているのか、ということをだらだら綴ってそれを弱いZINEへの応援の言葉とさせていただいて、Web用にはそれと関係のない宅録をこれから録音して送ります。
コロナとその他の予見不能な生活における出来事は何が違うか。なぜコロナを運命的なものと認められないか、テレビとかで頭がいいんであろう余裕がありそうな人が感染症の流行は周期的なもので生態系の破壊が!グローバルな人の往来が!ときーきー言っていて、それはそうなんだけど、と納得しながらも私はずっと引っかかっていた。なぜ運命として受け入れられないか。武漢の研究所から漏れ出ずった生物兵器説でも受け入れられたら楽なんだけど、そんな映画みたいなの面白すぎて悔しいから信じられない(中国の思想警察がレーザー銃を実装していたとすれば話は別)。
最近ヒントになる本を見つけた。『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)は有名な本だけれど、岩波のお涙頂戴物には食傷気味で油断していたがこれはものすごく面白い。インタビューで構成されていて、いまされるべき物語のアプローチというかんじ(そう考えるきっかけとなったのは今年出た『プリーズ・キル・ミー パンクヒストリー無修正証言集』(eleking-books)が同じ手法だったから。ベルベッツやピストルズのメンバー・裏方の回顧録。ヘロ中の戯言がバカすぎていちいち注釈入れてられなかったという可能性は大いにあるが、作者は証言の塊を切り張りするという方法を確信的に選んだはず)。冒頭の発電所を鎮火して亡くなった消防士の妻に続く2つめの証言で著者のアレクシェービッチ本人がこの本の意図を説明する(2番目にパワーヒッターを持ってくるのは近年の大リーグでは主流。バントの有効性は統計学的に否定されている(それとあわせて流行したのがフライボール理論。とにかくホームランを狙いまくればすべて上手くいくっつう)ものの、日本では野球ファンの大半がぺーぺーの社員という事情を慮ってこれからも2番はバントというセオリーは絶対に続く)。
「一人の人間によって語られる出来事はその人の運命ですが、大勢の人によって語られることはすでに歴史です。二つの真実――個人の真実と全体の真実を両立させることはもっとむずかしいことです。今日の人間は時代のはざまにいるんです」
日常では乖離してる運命と歴史がごっちゃになっているのはまさに今。しむけんとは我々のことである。
今回の問題は一応の原因と収束の在り方を理解しているけれど、どんな未来になっちゃってるのかなんて想像つかない。経済が持ちこたえられないかもしれないし、お金刷りまくっていくつかの国はおかしくなるかもしれない(けれどMMTはいくつかの国ではもしかしたらうまくいくかもしれない。爆弾みたいな名前だし)。革命が起きるかもしれないし、芸能人の自殺のニュース見すぎてみんな死ぬかも。コロナと自殺報道は相性が悪い。マジのインフルエンサーだ。笑えない。だけど運命は個人的なものでしかないんだから、どんな状況であれ日常を取り戻すためにとにかく語るしかない。どう思っているか何考えているのかとか、なんでも。歌ってもいいだろうね。今こそリライトしてくれよ、ビートたけしは今でもコマネチしてんだから、頼みます。