秋と冬のあいだに
武田菜月
秋と冬のあいだに
武田菜月
たとえば、忘れているようでずっと記憶されているさりげない瞬間のことを考えてみる。
「このアルバムでこの曲が好き」が同じことが多く、そのたびふたりで盛り上がる母親の、その背中をそういえば私は見ていたこと。 車を運転する母が、かけている音楽にノって、ハンドルを人差し指で叩いて頭を動かし、静かに、でもしっかりリズムを取っているのをときどき後部座席から見つけることがあった。その様子にその頃からグッときていたのだと思う。最近、いろんな音楽に身体をあずける時間の合間にふと思い出した。
子供の頃、ドライブと音楽とは常にセットで、母が車でかける音楽を毎日聴いていた。生活の一部として、エンジンやウインカーの音と同じようにそこにある音楽。曇りがちな山陰の景色を黙って眺めながら、ときにぼうっと、ときに真剣に耳を傾けた。
母はずっと好きな物や事や人について揺るがずに生きていて、そのことを子どもながらに感じていた。車内を満たす音楽や映画好きなところや、それらについて彼女が語り合う面白そうな人たち、いくつかの冬に着ていた真っ赤な古着のコートなどから。
そして気づいたら私も、好きと思えることをとにかく追いかけ続けながら生きようとしている気がする。
つい先日1年以上ぶりのライブで、久しぶりの遠出だとかコロナだとか新曲だとか色々あっても、独特の高揚感と、意識と無意識のあいだに出てくる音、みたいなのがやっぱりたまらなかった。 バンドのメンバーと、観ている人たちと、それを包み込むブラジルコーヒーという場所と、外の通りの賑々しさと、それらが全部作用しあってビリビリと震えていた。ここは日本のクロスロードや、という野口くんの言葉もそういえばじわじわよかった。 記憶に残る夜というのは、そんな風に人と場所とが一体になってビリビリ震えている。
めちゃめちゃに踊った夜の記憶がだんだん増えていく。 風の又サニーでライブをしたときの吉田寮の夜。DJブースを囲んでみんなでくるくる踊り続けた。 その前の夏、ドラゴンウォーターという名の酒を飲みまくって汗だくで踊りながら観た、吉田寮村おこしのAUXのライブ。とか、他にも。 最近も踊れる場所につい足を運んでしまうし、なぜか自分も音楽をかける側になったりしている。不慣れで、かけているときは全然踊れないから、音楽をかける方の人間になることはまだしっくり来ず、敢えて言うとライブをすることに近い感触がある気がする。でも興味深いし、レコードという物の存在も面白い。 それに人が踊る場所というのが好きなのかもしれない。
タル・ベーラの『サタン・タンゴ』という映画の、酒場に集った村人たちが泥酔の状態でひたすら踊り続けるシーンをときどき思い出す。 ひたすら、というのは映画の中の時間だけでなく映画自体の時間についても言えることで、7時間以上ある映画の一つの山場でもあるこのシーンは長回しで数十分続く。泥酔したアコーディオン弾きの男は同じ曲を延々と奏でる。地獄のようにしつこく反復するメロディに飽きもせず、村人たちは狂ったようにダンスし続ける。 このシーンそのものと、それを観客として観続けることと、自分自身が夜どおし踊り続けることは、何か通ずるものがある。 意味なんてなくていいけれど、ただ音楽と一つになって踊り続ける、そんな時間と場所を求めている。
少しずつ、動いている。無理にするのではなく、してみたいと思うことのため。してみたいなと思えることがあるのは嬉しいし、一人では力不足なときに賛同してくれる人がいることも幸せなことだ。 今はなぜか、開かれた場所ですることに興味がある。ストリートミュージシャンのような風情で。
私が好きな場所というのは、どこかひっそりしているけれど淀んではいなくて、流れがあってなんなら風もあって、そういう場所で何かできたら、音など鳴らせたら、という気持ちがある。そんな場所へ出向くのも好きだ。
コロナだから、コロナなのに、ではなく、今の自分にできることをやってみるし目撃もしている。 細々と。ぼちぼちと。